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INTERVIEW

新たな道を切り拓くために――パラアスリート栄養サポートの先駆者に訊く

内野 美恵先生(東京家政大学 ヒューマンライフ支援センター准教授、博士)

東京オリンピック・パラリンピックの開催に伴い、近年急速に注目を高めつつあるパラスポーツ。その栄養サポートを1995年から続けてきたパイオニアが、内野 美恵先生です。

当時前例のなかったパラアスリートの栄養サポートという道を、自ら切り拓いてきた内野先生。前編ではまずそのキャリアと、その中で磨いてきた「人生の軸」に迫ります。

※取材時は全員マスク着用の上、三密を避けた環境で実施しております。

【人生の軸になった、2つの言葉】

まず栄養学との出会いについて訊くと、「何事も成り行き任せで、あまり意識の高い子どもではなかったと思います・・・」と苦笑いした内野先生。

内野先生「実は高校受験に失敗して、片道2時間以上ある高校に通わなくてはいけなくなったんです。それで下宿をするようになって。正直、すごくへこんでいました。

でも下宿先のおばさんが、料理がとっても上手な方で、3食の食事だけでなくお夜食までつくってくださったんです。本当においしくて、あっという間に太りました(笑)。

つらい時期を手づくりの食事に救われたことが、栄養の世界に関心を持つきっかけになりましたね」

当時から好奇心旺盛だったという内野先生。その中でもこの頃に出会った2つの言葉が、ぶれない人生の軸になったといいます。

内野先生「進学や受験で悩んでいた時、家族に『「何をしたい」「どこに行きたい」よりも、「与えられた環境でどう楽しめるか」を考えなさい』と言われたんですね。
それは後々、就職後のキャリアを考える時にも、ずっと心の真ん中に置いていた言葉でした」

もうひとつの言葉は、大学へ入学した後のことでした。

内野先生「大学1年生の夏休みに、アメリカでホームステイを経験しました。その時にホストファミリーの方に『美恵は将来どうなりたいの』と訊かれたんです。

私はそのころ特に夢もなくて、漠然と『よくわからないけど、幸せになりたい』って答えたんです。そうしたら『幸せになりたいのなら、人に奉仕することだよ』って。

栄養士の仕事って、食を通じて他者に奉仕する仕事だと思うんですね。しかも奉仕することって、やってあげているように見えて相手から与えられていることもたくさんあります。

私は『支援体質』と呼んでいますが、誰かを支援することに喜びを感じられる人が、栄養士には向いているのかなと思いますね」

「どう楽しめるか考えること」、そして「他者に奉仕すること」。この2つの軸を心の真ん中において、内野先生は管理栄養士としてのキャリアをスタートさせていきました。

 

【「街に出ること」で出会ったパラスポーツ】

大学で栄養学を専攻した内野先生は、その後周囲の勧めもあり大学院へ進学。ところが研究の世界には、思わぬ壁が待ち受けていました。

内野先生「その頃は良くも悪くもエビデンス重視、前例重視の雰囲気があったんですね。もちろん研究においては大切なことですが、そればかりにとらわれてしまうと、自由な発想をつぶしてしまうことにもなりかねない。
『栄養学を社会の役に立つかたちで伝えたい』と考えていた私にとっては、息苦しさがありました」

栄養学を社会のために――その想いを叶えるため、内野先生は研究生活と並行して「実社会とのつながり」を意識するようになりました。

内野先生「大学院生のころから、栄養の知見を生かしたボランティア活動や企業・病院での栄養指導など、自分で考えて社会のフィールドを広げようと、他業種の人と会うことを心掛けました。

その中で、研究室では得られない経験をたくさん得ることができましたし、逆に栄養学をビジネスにしていく難しさも感じました。

いずれにせよ、『自分の関心に従って自分から動く』楽しさをすごく感じていましたね」

博士号取得後もあえて研究所のポストではなく、企業や病院での栄養指導や非常勤講師の掛け持ちで生計を立てていた内野先生。そして自転車競技選手の栄養サポートをしていたある日、大きな出会いを果たします。

内野先生「たまたま入ったコンビニで、車いすのレーシングアスリートの雑誌記事を目にしたんですね。ちょうど他の分野にも専門を広げていきたいと考えていたこともあって、『車輪つながりで何かできるかも・・・』と思ったんですよ。

しかも練習していたのが、母校である東京家政大学の近くにある、王子のスポーツセンター。『これだ!』と思いましたね(笑)」

自身の関心に従い、アンテナを高く立てながら行動していたことで出会ったパラスポーツ。そこから、内野先生のキャリアは大きく拓けていきました。

 

【道を切り拓く日々】

はじめはボランティアで始めたパラアスリートの栄養サポート。その世界は、毎日が新たな勉強の日々でした。

内野先生「サポートのためにまず身長と体重を聞いても、自宅で測ることができず、知らない選手が数多くいました。また代謝が知りたくても、自律神経に障がいがあって汗をかかない選手もたくさんいたんですね。

あと自助排便ができない選手にとって、生活のリズムは試合でなく排便なんです。というのも、彼らの排便は薬を使って半日以上かける必要があるため、1週間から10日に一度。排便が近づけば食は細くなりますし、トレーニングに支障が出る人もいます。

いずれにせよ健常者の栄養サポートとはまったく違っていて、毎日がトライ&エラーの連続でしたね」
※脊髄損傷の場合、 反射性の腸の動きが起こらなくなったり、結腸と肛門の過度の緊張が起こったりして、自分の意思での排便コントロールができないケースがある。

パラアスリートの栄養サポートは、想定しえなかったことの連続でした。しかしそれは、必ずしもネガティブなことばかりではなかったといいます。

内野先生「パラアスリートって、想像もしていなかったことができるようになることもあるんですよ。お医者さんが無理だと思っていたことができるようになることがあるんです。

私は元々既成概念にとらわれることが好きではなかったので、そういうパラアスリートならではの大きな可能性をサポートできることに魅力を感じました」

内野先生がパラアスリートの栄養サポートを始めた1995年当時は、日本はおろか世界ですら前例がほとんどない時代。まさに、自分の努力のみで道を切り開く状況でした。

内野先生「確かに前例のないことでしたが、自分自身で道を切り拓いていく魅力がありましたし、支えてくださる方にも恵まれました。LEOCさんにも言えることですが、努力していることを認めてくれて、意欲を見守ってくれる雰囲気があると、人は成長できますよね」

内野先生は日本初となるパラアスリート専属の管理栄養士として、パラリンピックを含め国際大会に5回帯同。途中には出産・育児もありましたが、選手たちから絶大な信頼を得て、パラスポーツ界のパイオニアとして今なお活躍しています。

 

【スポーツ栄養の世界に進みたいあなたへ】

現在は大学の准教授として、学生たちの教育にも取り組む内野先生。スポーツ栄養の世界に進みたい学生からの相談も数多いといいます。先生はその時、どのようにアドバイスするのでしょうか。

内野先生「スポーツ栄養というと華やかな世界に見えますが、土日の試合に帯同したり、アスリートとまめにコミュニケーションを取ったり、実は地道な仕事が大半です。
そういう仕事を大切にできる粘り強さが、スポーツ栄養の世界を目指す上では必要かもしれませんね。

さらにパラアスリートとなると、一人ひとりの特徴が大きく違います。とにかく小さなことから、目の前のアスリートのことをよく見てあげて、オーダーメイドの指導ができることが大切だと思いますね。そこにやりがいを見出せる人は、本当に向いていると思いますよ」

そしてスポーツ栄養の前に、まず栄養士・管理栄養士として地道にキャリアを積むことが大切といいます。

内野先生「アスリートが高いプライドを持って日々の練習に取り組んでいる以上、栄養サポートを行うこちらも、それに応える引き出しを持っていないといけないですよね。

ですからスポーツ栄養の世界に入るために、まずは病院や高齢者施設など、栄養士としてのベースをきちんとつくっておくべきだと思います。スポーツ栄養はあくまでも応用分野ですから。

その点で、給食委託会社で働くことはスポーツも含めて業態の幅が広いですし、まずきちんと基礎から実力をつけていくという意味で、キャリアプランが描きやすいと思いますね」

安易に最終地点へまっすぐ飛び込むのではなく、楽しみつつ回り道をすることが、最終的には「キラキラしたキャリア」につながると語る内野先生。高くアンテナを立て、自ら動き、多彩な経験を重ねてきたことが、今日の活躍につながっています。

そんな内野先生が歩む、次なるステップとは。後編に続きます。

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